旅立ちの物語:光臨の受難曲
その時、天王寺飛鳥の時間は凍りついた。
上履きに履き替え、廊下を抜け、級友たちへの〝おはよう〟を皮切りに、何の変哲もない1日が始まるはずだったのに……。
初っ端から様子が違っていた。
上履きの上にちょこんと載っている、見慣れない薄型矩形の固形物。
記憶が正しければ、これは……!
17年に及ぶ天王寺飛鳥史において初となる、恋文贈与の儀式!
飛鳥は首を180度旋回させ、周囲を確認した。
しかし、手紙の主と思われる、いたいけな女子生徒は見当たらない。
恐る恐る手紙を開封すると、文面にはこうあった。
『天王寺飛鳥。ふたりきりで大事な話がある。夕刻、教会で待っておるのじゃ』
可愛らしい女の子の文字。
内容的にもラブレターであることは疑いの余地もない。
きっと人知れず想いを募らせていたのだろうと、飛鳥は判断した。
無記名なことと珍しい言葉遣いが、若干引っ掛かりはしたが。
(こう見えても僕は、顔は悪るないはずや。いや、むしろええ方やろう。ダチもぎょうさんおるし、他人に嫌われるようなこともしとらんつもりや。せやかて、何故だか恋愛ごとだけには縁がなかったんや……。こんな僕にも、ついに……!)
上履きに履き替えるのも忘れ、土足で廊下を爆走する飛鳥。
教室の前で急ブレーキをかけ、両手で力いっぱい扉を開け放つ!
「恋愛フラグ、キターーーー!!」
すでに登校していたクラスメイトたちは一斉に振り返る。
高々と掲げられたラブレターに、そのまま視線が集まった。
「なんやて!?」
「えー。なにそれ本物ー?」
「よこせ!」
中身を確認しようと、わらわらと群がってくる男子生徒たち。
遅れて女子生徒たちも興味津津に集まってきた。
普段から誰とでも裏表なく接する飛鳥は、いつもコミュニティの中心にあり、周囲には笑顔が絶えない。
飛鳥自身、数時間後は満面の笑顔を浮かべているのだろうか?
はたして……。
そして、運命の時、来たる。
学校の隣に併設された教会の最前列にたたずむ飛鳥は、
夕日を受けて七色に煌めくステンドグラスに照らされていた。
「僕のことが好きな君に負けないくらい、僕も君を好きになりたいんや。……あかん。こりゃちょっとキザったらしすぎや。普通に、ふつーにいこ」
時計の針が17時を差した瞬間。
背後で扉が開かれる音と、人の入ってくる気配がした。
靴音が教会の壁に反響して、飛鳥の耳に届く。
「そこにおるのは、天王寺飛鳥か?」
「せや」
飛鳥は振り返りもせず答えた。
振り返らない方がカッコイイと思ったからである。
手紙の主と思われる人物のぶっきらぼうな話し口調と声色に覚えはない。
歩く速度からは、かなり小柄な女の子であることが予測される。
新入生だろうか……?
やがて、ピタリと止む足音。
それは相手が飛鳥のすぐ後ろまで来たことを示していた。
息遣いが間近で聞こえてくる。
飛鳥は最高に爽やかな微笑みを浮かべると、満を持して振り向いた。
「手紙おおきにな! 嬉しかったで! 君の笑顔はあのステンドグラスに描かれた、気高き天使のようや!」
しかし、振り向いた先には誰の姿もなく。
「言ってる意味はよく分からんが、むずがゆいのう」
代わりに、やや下方から反応があった。
140センチくらいの華奢な身体。
腰まで伸ばした長い黒髪に2本の角飾りをつけた少女は、飛鳥の想像よりさらに幼い容姿だったが、可愛い部類であることは間違いない。
ちょっぴり世間ズレしていそうなことなど些細な問題だろう。
「君、この学校の生徒じゃないんか?」
その少女は、何故だか巫女装束をまとっていた。
待ち合わせに教会を指定したわりに、不釣り合いな格好である。
「いかにも。お主に用があって、はるばる遠征してきたのじゃ」
「わざわざ僕に会うために……!? ほんま!? か、感動の涙が大洪水やー!!」
「大事な話を聞く決心はついたかの?」
「もちろんや」
頭ふたつ分くらい身長差のある相手を見つめ、飛鳥は肯定の意を唱えた。
聞きたいことは山ほどあったが、特に年齢についてはかなり気になったが、いたいけな少女の恋心には誠心誠意応えなければならない。
「君の気持ちに、きっと応えてみせる」
「ならば、天王寺飛鳥よ。侵略者からこの世界を護ってくれまいか」
少女の告白は、飛鳥の理解を超える内容だった。
「…………侵略者?」
「異形だのゼクスだのと呼ばれることもあるな」
「もしかして東京を壊滅させたという、あの――」
ブラックポイントが出現した周辺地域は未曾有の危機に陥っている。
それは誰もが知らされていることだった。
しかし、近隣や身内に直接的な被害を受けなかった飛鳥にとって、どこか遠い世界の出来事のように感じられていたのは事実。
「ちょと待ちい! なんやそれ。大事な話って、そんなことかいな!?」
「そんなこととはなんじゃ。この世界の危機なのじゃぞ! お主さっき、わしの気持ちに応えてみせると言うたではないか」
「ぐっ……」
恋の告白と勘違いしてたなんて、恥ずかしすぎて言えるわけがない。
それにしたって世界を護れとは話が唐突すぎる。
飛鳥はため息ひとつつくと椅子に腰掛け、少女に目線を合わせた。
「はぁ……君、いったい何者や? よそから来たゆうてたわりに、なして僕のこと知っとるんや?」
「わしは竜の巫女。この世界の平穏を望む者じゃ」
◆ ◆ ◆ ◆
リー、リー。
どこかで虫たちが鳴いている……。
飛鳥は暗がりの中、目を覚ました。
教会の長椅子でふて寝しているうち、すっかり夜になってしまったらしい。
『そうか、ならば無理強いはできぬな。時間を取らせてすまなかったの。お主はなかなかのいけめんじゃから、別の形で会いたかった気もするな。では、さらばじゃ』
飛鳥は竜の巫女の申し出を丁重に断った。
彼女の言う通り、この世界は……日本は大変なことになっている。
しかし、飛鳥はこのまま変わりなくのんびり暮らすことを希望したのだ。
(いいんや。僕はそんな大層な人間じゃなし――)
不意に飛鳥の鼻先へ、鳥の羽根のようなものが舞い落ちてきた。
さらに、すでに夜半であるにも関わらずステンドグラスから光が指し込む。
不思議な出来事に引き寄せられるように上体を起こした飛鳥は、七色に彩られた空間で繰り広げられる光景に、目を疑った。
ぼんやりとした光の中、女性がふわりふわりと、降りてくる。
金色の長い髪、頭上に浮かぶ輪っか、そして、大きな翼……。
やがて、女性は祭壇に横たわった。
ステンドグラスからの光は失せたが、その女性自身が薄く発光している。
「僕……夢でも見とるんかいな?」
その姿は数々の物語で目にしてきた天使そのもの。
しかし、彼女がまとうドレスには赤黒い染みが拡がっていた。
「うわっ!? だだだ、大丈夫ですか!?」
ひどい怪我を負っているにも関わらず、威厳と慈愛に満ちた表情を浮かべているのは、天使が天使たる所以だろうか。
端正な顔やしなやかな身体は、向こう側の景色をうっすら透かしていて、あたかも幽霊のように消えてしまいそうな儚さがあった。
「そこの人間……。あなたに頼みがあります」
彼女は薄く目を開けると、飛鳥に話しかけてきた。
「は、はい! すぐ、救急車呼びますんで!」
「いえ。あなたが持っているカードデバイスで私をキャプチャーしなさい」
「へ? カードデバイスって確か、ゼクスを捕獲する道具やな? テレビでやったら見たことあるけど、そんなん、僕が持っとるわけ――」
そこまで言って、飛鳥は右手の違和感に気づいた。
いつの間にか黒光りするカード状のものを握っている。
表面には〝Z/X〟の文字が刻まれていた。
「あるやんかー! まさか、さっきの子の仕業……!? アイツ、しおらしく引き上げおったと思えば!!」
「愚かな人間よ、時間がありません」
「お、愚かて……。ええいっ、具体的にはどうすればええんや?」
「カードを私に向け、強い気持ちを込めて……キャプチャーと叫ぶのです」
「…………って、待て待て待て! アンタ、ゼクスなんか!?」
「急ぎなさい。このままでは存在を保てなくなります」
「せやかて、ゼクスて僕らの敵やないか!」
「私は敵ではありません」
そうこう言ってる間にも、赤黒い染みは拡がってゆく。
彼女の姿もますます希薄になっていくようだった。
表情こそ崩さないが、切羽詰まっているのは間違いない。
「ええい。どうなっても知らんで! キャプチャー!!!!」
飛鳥の叫びに共鳴するかのように、カードデバイスは白い光を放ち始めた。
すぐに光は飛鳥と天使を包み込むほどとなり、天使は光の中、もとい、カードデバイスの中へ吸い込まれていった。
「これが、キャプチャー……」
「私の目に狂いはありませんでした。順応性の高さはケット・シー以上ですね」
カードから天使の声が聞こえてきた。
普通の高校生なら決して味わえない体験と興奮。
そこへ綺麗な女性に褒められてまんざらでもない気持ちが加わり、飛鳥を調子付かせる。
「私の名はフィエリテ。誇りのフィエリテです」
「僕は天王寺飛鳥いいます」
「では、飛鳥。続いて、アクティベートと叫びなさい」
「よっしゃ。アクティベート!!!!」
再び、フィエリテが光と共に飛鳥の前へ姿を現した。
先程と異なり身体は透けておらず、しっかりとした存在感を保っている。
また、血に染まったドレスではなく、正真正銘、純白のドレスをまとっていた。
光を失っていた頭上の輪っかも、まばゆいばかりに輝いている。
神々しい姿をしばし呆然と見つめ、やがて我に返った飛鳥は、高揚した気分が急激に冷めていくのを感じた
人間だろうと天使だろうとゼクスだろうと、どうでもいい。
彼女は傷を負っていた。すなわち、何者かと戦ったということだ。
これ以上関わりあいになると、平凡な生活から逸脱してしまう。
今ならまだ、戻れる。
「ほな、僕はこれで! フィエリテはんもお元気で!」
「では飛鳥、すぐに南東へ向かいます。奈良と和歌山の県境に白の世界のブラックポイントがありますから、そこで体勢を立て直しましょう」
「いやいやいやいや。何言っとるんや、アンタ」
「命令です。聞き入れなさい」
「さっき会ったばかりの、ほぼ無関係の相手に命令すな!」
高度な精神体であるフィエリテは、飛鳥から放たれる精神波を通じて直感した。
この人間は一見頼りなく見えるが、心の奥底に光るものを眠らせている、と。
それは自分に必要なものである、と。
本質はまだ分からない。
「私がこの時代の人間ごときを気にかける理由はありません。ですが、私はあなたを手放してはいけないと感じています。カードデバイスを扱える希少な存在ということもあるでしょう。しかし、それだけでは、精神の揺らぎに説明がつきません。私に精神レベルの干渉をしてくるとは、飛鳥、あなたは何者なのです?」
「知らんがな! ともかく、悪いけど僕は行かへんから。気ぃつけてな」
くるりときびすを返す飛鳥を、なおもフィエリテが呼び止める。
「飛鳥」
「なんなんやーーーー!」
ストレスをはらんだ飛鳥の怒気を感じ、フィエリテはわずかに動揺した。
(まさか、つながりが断たれることを恐れている? この私が? 何故、あの人間に惹かれるのか……理解不能です)
「どうしても私の指示に従う気はないのですね?」
「あんたは人にもの頼む態度からして、なっとらん。頭ひとつ下げられんヤツの言うことなんか聞けるかい!」
「なるほど。私はこの時代の流儀を見落としていたようです」
フィエリテは祭壇にべったり這いつくばる姿勢になった。
そのまま首だけを巡らせると、厳かな声色で飛鳥に言い放つ。
「改めて命令します。飛鳥、私を連れてブラックポイントへ向かいなさい」
「それ頭下げとらんから! 頭の位置低くしただけや!」
「おかしいですね。DOGEZAは最高峰の嘆願術と聞き及んでいたのですが」
「あーー……もう、ええて。普通にしとき。話くらい聞いたる」
ひとりで怒っているのも馬鹿馬鹿しくなり、飛鳥は普段通りの口調で、フィエリテに語りかけた。
「アンタひとりで行けない理由でもあるんか?」
「高位のゼクスはブラックポイントから離れると存在を維持できなくなります」
半透明で今にも消えてしまいそうだったフィエリテを、飛鳥は思い浮かべた。
「カードデバイスはブラックポイントから遠く離れた場所でもゼクスの存在を保ち、傷を癒しますが、使用するには適性が問われます。ゼクスはおろか、ほんのひと握りの人間しか使いこなせないのです。飛鳥、あなたは下賎な人間の中では、優れた個体なのですよ」
「せやかてなあ。ブラックポイントなんて恐ろしいとこ、行きとうない」
「世界の命運がかかっているというのに、身勝手ですね」
「……!」
飛鳥の頭の中に竜の巫女の言葉がフラッシュバックして、フィエリテの悪意なき暴言とシンクロする。
『侵略者からこの世界を護ってくれまいか』
「僕が、世界を……?」
「ようやくその気になりましたか」
「いやいや、ならんて」
「どうしても、ですか?」
「どうしても、や!」
「そうですか」
周辺がふっと暗くなる。
見ると、フィエリテの頭上の輪っかが光を失っていた。
押しに弱い飛鳥は、なんとなく心苦しい気持ちにさせられてしまう。
「う、うーん。そりゃ、放っとくのも気の毒やけど……」
飛鳥の言葉に呼応するように、輪っかがまばゆい光を放った。
フィエリテ本人は、威厳と慈愛に満ちた表情を崩していなかったが。
「いや、でも、しかしなあ……」
輪っかがまたも光を失う。
もしかすると、落胆しているのだろうか。
飛鳥は身勝手で居丈高な天使に、思わぬ人間らしさを垣間見た気がした。
「しゃーない。ひとまず今回だけは面倒見たる。今回だけやで!」
案の定、輪っかは輝きを取り戻した。
興味深げに光の変化を見守っていた飛鳥だったが、ふと、真正面からフィエリテに見つめ返されていたことに気づく。
さらに彼女は、大胆にも飛鳥の手を握ってきた。
「…………飛鳥」
「な、なんや」
思わぬ急接近で飛鳥の鼓動が高鳴るのをよそに、フィエリテのもう一方の手から、光の球が浮かび上がる。
「離脱します」
「ひぁっ!」
ガシャァァァァン!
突如襲ってきた浮揚感に戸惑い、妙な悲鳴を上げる飛鳥。
光の球がふたりをすっぽり覆ったかと思うと身体が宙に浮き、凄まじい勢いでステンドグラスを破って、空へ投げ出されたのだ。
ゴシャッ。
直後、飛鳥の背後で背筋の凍るような気配を伴う、不気味な音。
振り返ると、飛鳥の眼下にあるはずの教会は跡形もなく消し飛んでいた。
土煙の中でぼんやり見える程度だが、3列の直線状に地面がえぐれている。
言うなれば、それは、獣の爪跡――
くすぶる土煙の向こうに、大小2つのシルエットと鈍く光る双眸が浮かび上がる。
その姿を認め、フィエリテが小さく呟いた。
「ここまで追って来ましたか」
「死にぞこないのエンジェル風情が手間取らせてンじゃねぇ。さあ、命令をくれ! 何もかも俺の爪で消してやるよ!!」
フィエリテの光が闇をまとった者たちの姿をあらわにしてゆく。
巨大な影は、漆黒の身体と翼を持った、豹の異形。
小さな影は、夜風にブロンドの髪をたなびかせ、うつむいている少女。
「飛鳥に命令します。暴虐の限りを尽くす侵略者を排除なさい」
「まったく……なんでこないなってもうたんや?」
うつむいていた少女が、顔を上げた。
フィエリテを見据える眼差しに宿るは、憎悪の炎。
「天使は許さない……絶対にッ!!」
ゼクス・ゼロ 光臨の受難曲 <こうりんのパッション> 了